「大禹謨」再発見 ~それを受け継ぐ人たち~
ISBN:9784863870345、本体価格:1,200円
日本図書コード分類:C0025(一般/単行本/歴史地理/地理)
266頁、寸法:182×257×15mm、重量587g
発刊:2013/06

「大禹謨」再発見 ~それを受け継ぐ人たち~

【はじめに】
~二つの「大(だい)禹(う)謨(ぼ)」 (北原 峰樹)
 栗林公園の商工奨励館中庭に「大禹謨」と刻まれた高さ60㎝くらいの石が建っています。
 県立香川中央高校(高松市香川町大野)のバックネット裏にあるお社の横にも、同じように「大禹謨」と刻まれた石が建っています。
 この二つの「大禹謨」、栗林公園にあるほうが本物ですが、もとは大野の地に江戸時代の初め、西嶋八兵衛という人が建てたものだと言われています。
 この西嶋八兵衛は伊賀上野から讃岐にやってきた人でした。当時讃岐の国は生駒高俊という殿様が治めていましたが、まだ幼かったので、母方の祖父である伊賀上野の殿様、藤堂高虎が西嶋八兵衛に讃岐の水を治めさせるために讃岐につかわしたのでした。
 西嶋八兵衛は、元和7(1621)年を初めとして、寛永16(1639)年までに三度讃岐を訪れ、その間に、満濃池のほか、約90のため池を直したり、新しく作ったりしました。また高松の町を発展させ、その東側に新田を開くために、香東川の東側の流れを堰きとめて西側一本にするなど、讃岐の国の治水や石高の増産に大きく貢献しました。
 この「大禹謨」は、香東川の流れを一本にした際、今後洪水が起きないようにという願いをこめて、その分岐点にあたる大野の地に建てたものだと言われています。
 ただ、西嶋八兵衛が「大禹謨」を建てたのち、いつしかそれは姿を消し、その存在はすっかり忘れ去られていました。そして1912(大正元)年、大洪水の修復工事の際に川で発見され、地元の人に拾い上げられたのです。ただその時はお墓だろうということで、近くの薬師堂の横に置かれました。その後1945(昭和20)年になってやっとその価値に気づく人が現れ、さまざまな人の努力で西嶋八兵衛が書いたものだということが確認されました。
 その後「大禹謨」は栗林公園に遷され、もともと置かれていた大野の地には、それがあったことを忘れないために、地元の人が近くの河原からよく似た石を探し出し、模刻(レプリカ)を作って建てました。
 「大禹謨」が二つあるのはそういうわけです。

【まえがき】
(岡部 澄子)(旧姓平田)
 昨年2012(平成24)年は、香東川から大禹謨を拾い上げて百年、そして大野中津から栗林公園の商工奨励館に遷して(昭和37年7月7日遷移)50年と、どちらも記念すべき年に当たりました。
 この記念すべき時に、「大禹謨」を発見解明した父平田三郎を知る最後の証言者として、歴史を正しく後世まで伝え、広く皆様にご理解をいただきたいという思いで、この度、県立高松桜井高校教諭(昨年度までは香川中央高校勤務)の北原峰樹先生のご協力をいただいてこのような形にまとめることに致しました。
 父に関する資料の大半は、平田三郎の長男英夫(大正2年生まれ)の長女小野美智子(大阪狭山市在住)の手許にあったものを三女の私が受け継ぎました。父平田三郎が1956(昭和31)年に亡くなって57年になりますが、香東川を一本の流れにした西嶋八兵衛、八兵衛が建てた大禹謨についての研究や顕彰活動がここ数年ようやく盛んになって参りました。そのことにより、遅ればせながら亡父平田三郎がようやく脚光を浴びてきたように思われます。
 かくいう私も80歳の傘寿を迎えました。その記念に父を偲び、共に過ごした26年間を思い起こして、その足跡をたどってみました。すると「大禹謨」と平田三郎の関わりを調べている過程で、私はいろいろ不思議な出会いがあるものだ、何の因縁だろうか、いやこの縁は出会うべくして出会ったのだ。そうしみじみ感じました。
 一 1945(昭和20)年高松空襲後の疎開で、それこそ拾い上げられた「大禹謨」のすぐ近くの大野村善海へ引っ越して来たこと。
 二 父の先祖がかつて伊賀の国平田城におり、その伊賀は西嶋八兵衛の第二の故郷で、菩提寺があること。
 三 父の最終勤務地が四番丁小学校であり、その校庭に西嶋八兵衛の屋敷跡があること。
 四 父の第二の職場は天神前にあった表誠館内財団法人香川県育英会で、主事として時の教育界の重鎮、岡内清太氏に仕えたが、この岡内清太氏が大正5年、西嶋八兵衛を叙勲申請したこと。さらに八兵衛をお祀りしていた先賢堂(表誠館前庭)は私の家のすぐ近くで、私の遊び場であったこと。
 こうした数々の縁に加え、さらに奇縁を感じましたのは、平成22年の1月末、市報を見て高松大学生涯教育セミナーで北原峰樹先生の「中国神話再発見大禹謨」のお話を伺ったのがことの始まりでした。前年に主人岡部貞雄を90歳で見送って無気力になっていた時、それを待っていたかの如く突如忙しくなったのです。それというのも佐野通明さんに受付で声を掛けられ久しぶりのご挨拶をしたのがきっかけです。佐野さんは香川中央高校開設の功労者として、また事務部長として北原先生とお知り合い、と同時に実は主人のお仕事上の後輩というご縁があり、それが私を「大禹謨」に関わらせることになった次第です。それ以来、父の遺影を床の間に飾って毎朝父に声を掛け、威厳ある立派な父であったなあと再々確認しています。
 昭和37年7月7日に遷移除幕式をしてより、平成24年で50年、随分長い月日を経たことになります。私は父の46歳の時に生まれた遅い子供で、4人兄弟の末っ子でしたが、この節目に、今回最後の親孝行が出来ることを大変喜んでいます。
  父の年長(た)けて生まれし吾なれば
   父の偉業を語りつづけむ
               澄子

【あとがき】
 1945(昭和20)年、平田三郎さんが埋もれかけていた「大禹謨」を掘り起こし、西嶋八兵衛が書いたものかどうかを確認したいと思った、その思いがこの本の始まりです。その後それを受け継いだ多くの方が、文字にして綴り、声にして語りました。この本はそうした「大禹謨」に寄せられたさまざまの思いを今、一つにまとめようとしたものです。
 「大禹謨」への思いはこれまで大きな波が三回ありました。
 最初の波は昭和30年代から40年代前半です。それ以前は生活していくのに精いっぱいだったのが、高度成長期を迎え、生活に余裕ができて、歴史や文化の研究に時間やお金をあてられるようになった時期だと言えます。ちょうどそれと重なるように「大禹謨」が初めて活字になり、大野から栗林公園に遷されることで、人々の関心を呼んだものと考えられます。
 その次は大野地区に県立高校(香川中央高校)の建設が決まったころです。1975(昭和60)年に着工し、第一期生が入学したのが昭和62年です。高校の新設にともなって、この地域に人々の関心が集まり、「大禹謨」や薬師堂が建てられている場所と、その前を通る道路も整備されました。
 三回目の波は、2010(平成22)年に第一回全国禹王サミットが開かれるころからで、その波は今なお続いています。第一回は「文命宮」のある神奈川県開成町で開かれ、昨年の第二回目は「大禹皇帝碑」のある群馬県片品村で開かれました。そして今年、第三回が「大禹謨」のある、栗林公園と大野の二カ所を会場に開かれます。禹王に関係する碑が各地で発見されていくなかで、禹王を縁に、日本だけでなく、韓国や中国までもその大きな波は包み込もうとしています。「大禹謨」については今後、韓国や中国にある禹王遺跡も視野に入れながら、研究を進める必要があると感じています。
 さて、この本の作成にあたっては、実に多くの方のご協力をいただきました。ここにあらためてお名前を挙げるにはあまりに多すぎますので、本書の中にその都度書かせていただきました。それをもってお礼に代えさせていただきたいと思います。
 「大禹謨」に最も熱い思いをお持ちなのは、「大禹謨」再発見者を父に持つ、岡部澄子さんです。この本の共著者として資料の提供はもちろんのこと、当時の様子など度重なる取材にも快く応じてくださり、本書の執筆を大いに支えてくださいました。ここに記して感謝の意を表したいと思います。
  平成25年7月  北原 峰樹

【目次】
はじめに~二つの「大禹謨」 (北原 峰樹)
まえがき (岡部 澄子)
第一章 「大禹謨」が再発見され栗林公園へ遷るまで
 (一)平田三郎「大禹謨」再発見
 (二)平田三郎から平田ヤス、福家惣衛へ
 (三)福家惣衛から藤田勝重、そして栗林公園へ
第二章 「大禹謨」あれこれ
 (一)「大禹謨」~西嶋八兵衛はなぜこの三文字を選んだのか 「大禹謨」の原典を読む~福家惣衛註釈『尚書(書経)』「大禹謨」
 (二)「寛永十四(一六三七)年」~「大禹謨」が建てられた年
 (三)「善海」~「大禹謨」が建てられた地
 (四)「大禹謨」座談会~地元の方の思い
 (五)県外の「大禹謨」~伊賀上野、秋田矢島、広島
 (六)食べる「大禹謨」、飲む「大禹謨」
 (七)消えた「大禹謨」
 (八)「祖父平田三郎の思い出」
第三章 「大禹謨」再発見を受け継ぐ人たち
 「大禹謨」関連論文、記事等一覧表
 「大禹謨」関連論文、記事
おわりに~「大禹謨」五首 (岡部 澄子)
あとがき (北原 峰樹)

【著者紹介】
〔編著者〕
北原 峰樹
岡部 澄子