覇王(中)長宗我部元親 第2版
ISBN:9784863870475、本体価格:1,000円
日本図書コード分類:C0093(一般/単行本/文学/日本文学小説)
190頁、寸法:148×211×10mm、重量246g
発刊:2014/01

覇王(中)長宗我部元親 第2版

【内容紹介】
戦国時代から安土桃山時代にかけて、土佐国の戦国大名であった長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)を主人公とした小説。
長宗我部 元親は土佐の国人から戦国大名になり、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国のほとんどを手中にしたが、織田信長の侵攻を前にして、本能寺の変にて難を逃れた。その後、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。

【あとがき】
 ひとまず、「覇王」はここで筆を措きたい。
 永禄三年、土佐長浜に初陣した長宗我部元親という若者が、土佐一国の制圧に十五年をかけ、次いで阿波・伊予・讃岐を支配下に納めたのが天正十三年の春であるから、丁度十年かかった。都合、二十五年を費やし、土佐の一地方豪族が四国の覇者となったのである。
 もちろん元親の生涯は、慶長四年(一五九九)五月に六十一歳で病没することで終
(しゅう)熄(そく)するのであるから、こののち十五年の間、戦国末期を生き抜くわけである。だからここで筆を措くことは、敢えてつけた「覇王」という表題が充(み)たされていないかもしれない。だが、元親の覇業を考えるとき、この天正十二年六月が頂点であった、と私は思っている。
 何故ならば、乱世に生きる武将の常として、元親もまた都に馳(は)せる夢を描いていたとみるのが自然である。次第に四国を席巻する中で、─海を越えたい─願望の猛りが、慥(たし)かなものとして湧き上がり、時として身(み)裡(うち)の深い所から、蠕(ぜん)動(どう)するように起きるのを覚えたことであろう。初陣以来二十四年目にして、中央から招きがかかった。即ち、賤(しず)ケ岳の戦いと、それに続く小牧長久手の戦(いくさ)における徳川家康・織田信(のぶ)雄(かつ)からの出兵依頼がそれであった。ところが、費やした年月にも拘(かか)わらず、四国の征服は不完全で、伊予は南伊予の一部と東伊予を得ていたとはいえ、三分の一に過ぎなかった。
 「無(む)鳥(ちょう)島(とう)の蝙(へん)蝠(ぷく)」と信長から蔑称されたというのは別として、高峻な山に遮絶され、とかく行動が思うようにできなかった無(む)鳥(ちょう)島(とう)、四国の地形にこそ、元親は、或いは切歯扼腕したかもしれない。むろんそこには、中央に比べ、兵農分離が遅れていたことも原因してはいる。
 待ち続けていた出兵依頼の好機を逸(いっ)し、海を越える、という年来の夢が叶わなくなったとき、無念さとともに気力が一時に萎(な)え凋(しぼ)んだことであろう。
 この年の秋、家康と講和を結んだ秀吉の影が濃厚さを増す中で、翌、天正十三年の春には、伊予全域を降(くだ)した。
 だから形の上から見る限りでは、この時点で南海の覇王、となったのであるが、秀吉の影に覆われての覇業であって、その心中には躍動の迸(ほとばし)るような思いはなかったであろう。やがて毛利軍をも含めた三方面からの秀吉の攻撃を受け、ほぼ一か月後にはこれに降伏し、天正三年の段階である土佐一国に後退する。そんなところからして、この小牧長久手の戦(いくさ)は、元親の武運を分けた事件であると信じるし、精神的にも、これ以後大きな変化をきたすであろうと考え、敢えて、ここで筆を措いたのである。
 とはいっても、むろんこれで元親を書き終えたわけではない。
 秀吉に降(くだ)った翌年の正月に新春参賀のため大坂城に伺候し、その秋には島津征伐に従軍した。このとき、豊(ぶん)後(ご)戸へ次(つぎ)川(がわ)で嘱望していた長男信親が討ち死にするという悲劇に遭遇し、やがて小田原の北(ほう)条(じょう)攻め、更に文禄慶長の役では朝鮮にも参陣する。その間、秀吉からは大(おお)隅(すみ)国(のくに)を与えられるが、これを辞退し、土佐一国の内(ただ)政(まさ)に尽力するのである。居城も岡豊(おこう)から大高坂(現、高知城の地)、更に浦戸に移すなど、元親の情緒にうつろいが生じてきた、と言われている。
 そのあたりに関し、戸(へ)次(つぎ)川(がわ)の古戦場を二度歩き、朝鮮の陣の基地となった肥(ひ)前(ぜん)名護屋城を散策したし、不完全ながらも韓国を先年旅行した。それらのことを元に、今暫(しばら)く思念の発酵を待ち、是非とも「覇王、その後」として書きたいと思っている。
 ともあれ、この稿を書くにあたって、可能な限り史料と言われるものに目を通し、旧跡を訪ねはしたが、人物の動きのみならず、年代その他の不明瞭な点が多いのには悩まされた。というのも、信頼のおける基本史料に欠け、ともすれば、それら史料と呼ばれる中の創作らしい記述やら、四国各地に伝えられている、元親という人物にまつわる伝承誤承の凄(すさ)まじさに振りまわされがちになった。が、信長や秀吉、家康といった中央で卓抜した武将やら、武田信玄・上杉謙信らの驍名さに対し、元親のみならず、十(そ)河(ごう)存(まさ)保(やす)を始(はじ)めとする四国の武将は、とかくに過小評価されすぎているのではないか、という気持が、終始去らなかった。
 殊(こと)にこの時期の武将として、元親の内(ただ)政(まさ)は十分に評価されてよいと思う。その一例として法令をあげると、晩年に制定した元親百か条は有名であるが、別に十五か条の式目とも呼ばれているものがある。その中に、
 一、三史五経七書は、当(まさ)に熟覧すべき書なり、常に師に就いて習い学ぶべきこと。
 一、乱舞・笛鼓(つづみ)・鞠・茶会等の技芸といえども、略(ほぼ)相嗜(たしな)むべし、他国に至って赤面に及ぶは、頗(すこぶ)る恥辱なるべきこと。
 といった戒(いまし)めを家臣に教えている。こうまで明快に学問や芸事を奨励している戦国大名が、戦国前期は別として、他にいるかどうかは詳しくはない。が、ちな
みに武田信玄の家法の中に、
 一、乱舞・遊宴・野牧・河狩等に耽(ふけ)り、武道を忘るべからず、天下戦国の上は、諸事なげうち、武道の用意肝要たるべき事
 と同じことをこう説いている。「諸事なげうち」とあるところに、乱世に生きる武将としての厳しさが窺(うかが)える。一方、元親がこの十五か条の式目を制定したのは、天正二年五月、即ち土佐一国を平定する前年、三十六歳のときである。いよいよ土佐を支配し、他国への発展を目指す元親の心意気やら、家臣への思いやりが滲(にじ)んでいるように思えてならない。一例であるが、ここからしても元親は、彼ら卓抜した武将に伍する人物と考えてよい筈(はず)である。もっと言えば、応仁の乱における四国勢の活躍や、それに続いての三好長(なが)慶(よし)の存在なども、更に見直されるべきであろう。
 冗長になったが、地方史の未整理を痛感する反面、多くの郷土史を研究されている方々から、ご教示いただく機会に恵まれたことは有難かった。殊(こと)に、高知大学名誉教授山本大先生、前香川大学文学部長藤井公明先生から、ご懇切な、ご助言をいただき、また、徳島県の藍住町勝瑞にお住まいの市原茂旭翁からは、特に中富川の合戦に関して、興味あるお話をうかがった。この機会に厚く御礼を申し上げたい。
  昭和五十五年七月 西村忠臣

【目次】
岡本の城
傲(おご)り
入道雲
動く川
萩の花
血の臭い
築城

【著者紹介】
〔著者〕
西村 忠臣