近世讃岐史の断章
ISBN:9784863871700、本体価格:2,000円
日本図書コード分類:C1021(教養/単行本/歴史地理/日本歴史)
453頁、寸法:148.5×210×27mm、重量710g
発刊:2022/11

近世讃岐史の断章

【序】
 本書は特定の研究課題のもとにまとめたのではなく、近世讃岐の歴史の一端を4項目ごとに論述、紹介したものである。その内容は、坂出新開の築造を建言した久米栄左衛門の動向と坂出新開のありかたをめぐる「久米栄左衛門と坂出新開」、近世における民衆の巡礼である四国遍路に関する「四国遍路と遍路日記」、『坂出市史 近世編』に収載された「〔概要〕幕末期高松藩と坂出の塩田・軍事」、これまで紹介されていない重要な史料の「史料紹介」によって構成されている。
 はじめにそれぞれの項目について簡単に解説を行い、続けてその個別の内容の要約を記すことにしたい。
 Ⅰ部 久米栄左衛門と坂出新開
 久米栄左衛門(通賢)は19世紀前半に活躍した、高松藩の科学技術者として最近注目されている人物であり、銃砲の製造や天文測量術、地図の作成などが知られている。他方高松藩の財政問題にも関心をもち、19世紀に入って生産が盛んになってきた砂糖への統制による収入と、阿野郡北の坂出村の海岸の埋め立てによって築造された坂出新開からの塩田収入による、藩財政の収納増加を建言していた。なお久米栄左衛門の全体像については『もっと知りたい!久米通賢』(久米通賢研究会編、鎌田共済会。2010年12月)を参照していただきたい。
 この久米栄左衛門の関係史料が坂出の鎌田共済会郷土博物館に所蔵されており、その中に坂出新開に関する史料がある。それらによってまとめたのが「第一章 高松藩坂出新開における天保三年の収納状況」と「第二章 高松藩の坂出新開築造と大坂・江戸商人」である。この二論考は平成15年以来の、「久米通賢研究会」(代表香川大学松村雅文教授)における研究討議の成果である。
 平成25年に『坂出市史』の編さんが再開されたが、近世編後期の一部を執筆担当することになった。担当内容の構成を整理し、市史編さん所が収集した史料を検討しているうちに、坂出新開に塩会所が置かれていたこと、また塩を中心とする諸取引に関して、新開で塩百姓や商人らをめぐる対立があったことがわかってきた。塩会所について検討したのが「第三章 高松藩坂出新開の塩会所に関する史料的検討」、新開での対立について述べたのが「第四章 幕末の高松藩坂出新開における社会的動向」である。
 これらの四点の論考はいずれも実証的な検討が不十分であるため、史料紹介的な内容になっていることを断っておきたい。
第一章 高松藩坂出新開における天保3年の収納状況―久米栄左衛門史料「金銀出入勘定帳」の検討―
 高松藩では文政9年に藩財政難解決の一つとして、阿野郡北坂出村の海浜に新開を築造して、そこに塩田を設けることにした。その工事の責任者となったのは、当時藩に召し抱えられていた科学技術者の久米栄左衛門であった。築造したのは3年後の文政12年8月であるといわれるが、最終的に西新開・東新開(中新開ともいう)・江尻新開(畑地)の築造工事が終わったのは天保4年12月であった。
 ここで取り上げる「金銀出入勘定帳」(以下「勘定帳」と記す)は久米栄左衛門史料に収められており、天保3年時の坂出新開に関する収納と支出を記したものと判断した。ただし支出については内容の記載はない。この「金銀出入勘定帳」の収納内容を分析することによって、新開築造工事が続けられている天保3年の、坂出新開の築造の財源の内容について検討したい。
 「勘定帳」の収納には藩から拠出された中に、「奥御用所」・「御奉行」よりとして多くの銀高が記されている。これには高松城下の町人からの借り入れも含まれていた。借用としては町人以外からもあり、久米栄左衛門の生誕地馬宿村の廻船業者や近くの村の農民、また西新開と東新開の両塩問屋の名もみえる。そのほかの収納としていずれも新浜での塩の生産高にかかる「口銀」や「浜方冥加」(冥加銀)、「帆別銭」、「諸冥加」などがあった。
 新開の築造に携わっていた草薙正兵衛の書状があり、かれの坂出新開築造における役割を理解することができる。
 また久米栄左衛門宛の書状の中に、大坂や江戸の商人と考えられる人物からの書状があり、また他の書状のなかにも大坂や江戸の商人に関する記事を見ることができる。これらから大坂では岡三士郎・鍵屋礒次郎、江戸では松本安兵衛が、坂出新開築造の経費の調達に関係していることがわかり、その調達の条件として大坂では砂糖、江戸では坂出新浜塩の取り引きを要望していた。このように藩からの坂出新開築造の経費に関わって、大坂や江戸の商人が介在していたのではないかということが考えられる。
 なお、本章の概要は「高松藩『御内証金』と坂出塩田」・「坂出塩田と大坂・江戸商人」の題で、『坂出市史研究』第6・7号(坂出市史編さん所)に報告している。
第三章 高松藩坂出新開の塩会所に関する史料的検討
 藩営塩田である坂出塩田に対する、高松藩による統制の詳細については明らかでないが、明治39年12月に刊行された『大日本塩業全書』に、高松藩の塩役所である塩会所が置かれていたという。そして大正元年に書かれた『坂出史』に塩会所の運営に関する記述があるが、その出典史料が示されていない。本稿では現在収集できた史料によって、『坂出史』の記述を裏付けるとともに、塩会所の性格について検討してみたい。
 なお坂出新開は西新開・東新開・江尻新開の3新開をいうが、ここでいう塩会所は塩田が主で畑地も含む西新開と東新開を管轄しており、塩田の釜家の合計は72軒前であった。
 塩会所は天保6年の史料の中に確認できるのが初見であり、そのころにはすでに塩会所が設置されているのがわかり、以後塩会所の名が史料の中に散見される。とくに裏書に塩会所名と印が押されている、安政6年の塩田の譲渡証文は貴重な史料である。これらの史料から塩会所の職掌がある程度理解できるが、とくに塩会所が勘定方の「済方」の管轄下にあるのが注目される。
 久米栄左衛門自筆の書付である「天保四年 心積控」が残されており、この中に天保3年の新開の収納等を記した箇所がある。その内容は「勘定帳」の収納とほぼ同じである。
 天保3年から5年前、坂出新開の築造が始まった翌年の文政10年の、久米栄左衛門自筆の手控えの「宿元銀渡し之写」がある。この中に奥御用所からの収納を示す「手形断」と書かれた「入銀札」が記され、また大内郡南野村五郎兵衛や廻船業者五作からの借り入れもあった。払い出しの多くは「勘定場」となっているが、おそらく新開の築造経費を扱ったところであろう。翌文政11年にも「銀札断」として藩からの入金がみられる。
 「宿元銀渡し之写」にあった南野村五郎兵衛は富裕な農民であり、藩の砂糖統制にも当時大内郡で重要な役割を果たしていた。この五郎兵衛の久米栄左衛門宛の書状が3通残っており、これらによって五郎兵衛から久米栄左衛門へ資金が渡されているのが確認できる。
 「金銀出入勘定帳」は天保3年の坂出新開の収納のありかたを示していると考えられ、それらの内容は築造工事が始まって間もない、文政10年からの史料にもうかがうことができる。
第二章 高松藩の坂出新開築造と大坂・江戸商人―久米栄左衛門宛書状からみた―
 本稿はすでに科研費研究成果報告書(研究代表者北林雅洋香川大学教授)『久米通賢による坂出塩田築造の経緯および技術的・財政的・政治的基盤』、拙著『私と地域史研究』に掲載したものであるが、項目など内容を一部修正して、改めて本書に掲載することにした。
 高松藩の坂出新開の築造に従事した久米栄左衛門史料に、高松藩士をはじめとする久米栄左衛門宛の多くの書状が残されている。その中に坂出新開築造に関係した人物からの、従来知られていない坂出新開築造の財源に関する書状がある。とくに藩の勘定方吟味役として久米栄左衛門と緊密に連絡をとっていた吉本弥之助からの書状を通して、藩による築造経費の支出の状況を知ることができる。また坂出浦普請手代として久米栄左衛門とともに、坂出藩からの塩会所への出役人は4、5人だったようであり、交代で出張していたといわれるが、「坂出新浜詰」とあるように常駐していたと思われる。そして勘定奉行配下の「御済方御用」の役人が「新浜詰」となっている。済方は藩の借金の返済にあたるところで、高松藩天保の財政改革で重要な役割を果たしており、塩会所の設置は藩財政の問題と深く関わっていたといえる。
 天保6年に坂出新開に諸問屋株の許可が伝えられたが、このときに「奥御用所」からも通達があるという。奥御用所は藩主直属の職務を遂行するところと考えられ、坂出新開の築造と関係していた。また旅人宿株についても奥御用所から鑑札が渡され、その運上銀は塩会所へ納めるという。このように奥御用所、済方、塩会所の間に何らかの関係があったことが考えられよう。
 なお、本章の概要は『坂出市史研究』第8・9号に報告している。
第四章 幕末の高松藩坂出新開における社会的動向ー史料紹介を中心にしてー
 天保はじめに瀬戸内有数の塩田として築造された坂出新開の内部的動向については、これまでほとんど明らかでなかった。しかし再開された『坂出市史』の編さんを通して、天保末から慶応初年にかけての坂出新開の様相の一端をうかがうことができる史料が見いだされたので、煩雑であるがそれらの史料を紹介しながら、坂出新開の状況を考えてみたい。
 天保13年に新浜の塩庄屋宮崎駒吉の措置を不服として、新浜塩百姓らは坂出村庄屋へ願書を提出したが、その内容は預け銀や塩釜神社建立入目銀の未返済、塩蔵修理の過大負担、塩百姓寄合所建設のための不法な徴収など、塩浜百姓の負担軽減を求めていた。しかし翌年になって両者は「内済御取扱」を了承し、新浜塩百姓らは訴えを取り下げた。しかしこれから2年後に宮崎駒吉は「叱」の処分を受けている。
 宮崎駒吉の処分から2年後の弘化4年に、再び新浜塩百姓らは宮崎駒吉の不法を訴える願書を作成したという。この願書の結果かどうかは明らかでないが、願書日付の翌月に宮崎駒吉は「役義疎略」として塩会所での「日勤」となっている。さらに4年後の嘉永4年に新開の浜方・畑方百姓が願書を作成したという。それには塩庄屋宮崎駒吉とともに新開の上層浜百姓の「悪党者」の不正を摘発し、宮崎駒吉の塩庄屋罷免要望が記されていた。しかしこの後に宮崎駒吉は「御目見」となっており、藩にとっては「坂出浦新浜御用」には必要な人物であった。
 安政2年に新浜塩百姓は、当時他国船との塩取り引きを行っている諸問屋の不正取り引きを、勘定奉行へ訴えようとした。塩浜百姓60人ほどが高松城下へ向かい、城下外れの御林で藩役人へ願いの趣旨を伝えたが、これは藩の取り上げるところとならなかった。
 前年の安政元年に諸問屋らは、諸問屋から「借株」をしたものが他国船に迷惑をかけているとして、諸問屋の「貸株」の禁止を願い出ている。この貸株に関連して安政3年になると新浜塩百姓らは願書を提出した。その内容は諸問屋の番頭であった熊七と恒助の「無株者」が、尾張船をはじめ他所船と直接関係をもって不正な取り引きをしているので、かれらを村外追放にしてほしいというものであった。さらにこの願書の直後に、塩問屋兼諸問屋の北野美屋正三郎・堀井惣一郎も、同じくかれらの村外追放を願い出ている。これに対して熊七と恒助は反論書を提出して、諸問屋の主張を全面的に否定しているが、新開における新興の商人と考えられる熊七・恒助と、諸問屋との根深い対立がうかがえる。結局新浜塩百姓と塩問屋の願書は、熊七・恒助が「不調法」を申し出たことで取り下げられている。
 新開では坂出浦で塩をはじめその他の荷物の取り引きを行っていたが、新地の繁栄にともなって入船が多くなり仕事量が増えているとして、坂出浦の雑務を取り扱う浦年寄二名の役料の支給が認められている。また塩問屋らは、江戸行きの塩船の坂出浦への寄港を盛んにするために、備州畳表や阿州刻み煙草の積み込みが円滑に行われるよう願い出ている。またこの坂出浦に所属している「地船」の船頭らは「御用船」を勤めていることからくる不利益の廃止を求めている。
 Ⅱ部 四国遍路と遍路日記
 近世の民衆巡礼としての四国遍路については、すでに「近世讃岐の遍路と城下町・村方・村送り」・「近世讃岐の病死・煩い遍路と村落」をまとめたが(拙著『近世讃岐の高松藩国産と四国遍路』収載)、遍路の史料収集の一環として、遍路の体験を記した遍路日記に関心をもち、これまでの遍路研究で使用されている遍路日記の一覧を作成し、翻刻された日記を主として、ある程度の数のものを手許に収集することができた。
 これらの遍路日記の中から、遍路が通過する藩境にある各地の番所の状況について、遍路日記に記述されている内容を整理したのが、「第一章 遍路の番所通行と遍路日記」である。讃岐には番所が置かれていないため、ほとんど讃岐以外の記述となっている。
 遍路にはその途中で接待が行われていたが、遍路日記にそのことを記しているものがある。そのうち讃岐に関する遍路への接待について述べたのが、「第二章 遍路日記と讃岐の遍路接待」である。この讃岐の遍路接待のうち札所寺院での茶堂や接待などについて、香川県による史跡指定のための各札所の調査報告書と遍路日記等によって、その状況を述べるとともに、また札所に設けられた遍路の宿泊のための施設である、遍路屋・通夜堂に関して残されている史料を紹介したのが、「第三章 讃岐札所寺院の接待と遍路屋・通夜堂」である。
 近世の前期の遍路は讃岐の八十八番札所大窪寺から長野村を経由して、阿波の10番札所切幡寺へ向かっていたが、18世紀中ころからは長野村から北へ向かい、瀬戸内海に面する白鳥に出て東へ進み、引田・坂本を経て阿波に入り、大坂峠を越えて3番札所金泉寺へ行くことがみられるようになる。この長野村から白鳥を経て大坂越に至る遍路道について、遍路日記によって検討したのが、「第四章 遍路日記にみる『白鳥道』」である。
 こうした遍路に関わる番所や接待などについては、すでに遍路研究者によって研究が進められているが、これらに関心をもち先行研究をでき得る限り参考に、自分なりに整理したいと考えてまとめてみたものである。
 なお、本Ⅱ部では論文の体裁をとらずに、引用史料は読み下し文とし、漢字は常用漢字、変体仮名等は平仮名に改めた。また遍路に関する記述の年代が長い期間にわたるので、年号には適宜西暦を付した。
第一章 遍路の番所通行と遍路日記
 近世前期の最初の遍路日記である承応2(1653)年の澄禅の「四国遍路日記」によると、徳島に上陸して井土寺からはじめ、阿波の宍喰関所、土佐の甲浦関所、伊予の小山関所を通り、以後伊予から讃岐には関所はなく、讃岐の終わりの札所大窪寺から阿波に入って関所があり、切幡寺へと向かっている。関所では往来手形を提出している。
 遍路日記ではないが、澄禅の日記から34年後に刊行された、真念の遍路案内書の『四国徧へんろみち礼道指しるべ南』にも番所のことが記されている。澄禅の日記より3か所多く、また土佐藩独自の通行切手のことが書かれている。このように17世紀後半には国境の番所で、遍路であることの確認が行われていた。
 『四国徧礼道指南』からほぼ一世紀後の、寛政7(1795)年の玉井元之助「四国中諸日記」と同12年の河内屋「四国遍礼名所図会」をみると、両日記の番所の数は異なっているが、『四国徧礼道指南』に記されている番所とほぼ同じ数であり、18世紀後半には四国内の交通の要衝には番所がほぼ整い、遍路への取り調べが行われていたといえよう。
 しかし『四国徧礼道指南』にあった阿波の日開谷番所は両日記にはなく、代わりに大坂番所の記載がある。これは大窪寺から日開谷番所に向かわずに、北の瀬戸内へ向かい、白鳥へ出て引田を経て阿波の入ったことを示している。これは白鳥にある白鳥大神宮を参拝することが目的であった。18世紀終わりころには従来一般的であった日開谷への道とともに、白鳥へ出る遍路も増えてきていたのではないかと思われる。
 白鳥からは大坂番所へ向かって阿波に入っていたが、のちには引田から海岸を行き阿波へ入り、碁浦番所を通って撫養へ向かっている場合もあった。新しい遍路の道として利用されていたのであろうか。
 阿波から土佐藩領に入ると甲浦番所で入切手を渡されるが、以後宿泊地の庄屋の証明印がないと、其の先で泊まる場所が確保できないことになっていた。これを「日付帳面」というが、日数は30日を限り、伊予境の松尾坂番所に日付帳面を提出した。土佐藩領では遍路の通行の日数制限、宿泊地の確認と、遍路への統制が厳しかったのがわかる。
 このように17世紀の後半以降、遍路の取り締まりに当たる番所の位置は、幕末までほとんど変わっていないが、ただ讃岐から阿波に入る遍路道には変化があった。番所の通行では往来切手、船揚り切手、番所切手を所持していれば支障はなく、これは遍路日記を書き残した農民上層の遍路だけではなく、一般の遍路についてもいえることであった。
第二章 遍路日記と讃岐の遍路接待
 四国遍路への接待について、讃岐を例にして幕末に近い3点の遍路日記から紹介し、そのありかたについて検討してみたい。接待の一種といわれる善根宿についても述べる。
 天保4(1833)年の丸亀藩領吉津村の村役人層の新延家「四国巡礼道中記録」に記された、四国遍路全体での接待についてはすでに紹介されている。ここでは讃岐に限ってみると、接待は遍路道筋や札所で焼米・香物・赤飯・餅・味噌汁・大豆飯などの食料や、草鞋、銭などの接待を受けている。接待は近村の村からであるが、安芸・備前・阿波など讃岐以外の地からの接待も行われていた。接待者は個人ではなく村名が上げられており、村が接待経費を負担する村接待が中心であったのであろうか。また宿泊7日間のうち善根宿は4日であった。
 天保7年の武蔵国幡羅郡中奈良村野中彦兵衛の「四国遍路中并摂待附 万覚帳」は接待が詳しく書かれている。これについても喜代吉栄徳氏が紹介しているが、讃岐では接待の内容は新延家とほぼ同じであり、道筋、札所で受けているが、月代が一か所でみられる。接待者や宿の記載はない。
 野中彦兵衛の「万覚帳」から9年後の弘化2年の筑前国宗像郡津屋崎村商人佐治家の「四国日記」は、新延家・野中家の遍路日記よりも詳しい讃岐の接待のことが記されている。札所では茶堂での接待がみられるが、近くの村からとともに阿波・備前・備中の地からも接待が行われている。遍路道での接待は近くの村からであるが、檀ノ浦では海を隔てて北にある小豆島からの接待があった。宿は11回のうち善根宿が6、残りは木賃宿である。
 讃岐の遍路道筋に残されている接待碑については、片桐孝浩氏がまとめた「摂待、遍路宿等に係る資料」によると、讃岐の西では雲辺寺を下った白藤大師堂に明和4(1767)年の供養塔がある。それによると廻国をはじめ多くの遍路が接待を受けたことがわかる。これより先の接待碑は屋島寺以東にあり、18世紀末から19世紀中ころにかけての接待碑が5基確認されている。その中に地域からの接待を維持するために、田地が寄進されたことを物語る接待碑があるのが注目される。
 「四国巡礼道中記録」・「四国日記」、それと天保13年の丸亀藩多度郡生野村庄屋高田家の「四国道中日記」によって、讃岐・阿波・土佐・伊予の接待と善根宿の状況をみると、土佐では札所や遍路道筋での接待はほとんどない。札所の接待では土佐以外の国にみられ、讃岐が「四国日記」に、遍路道筋では伊予が「道中記録」・「道中日記」に多くみられる。善根宿は土佐ではみられず伊予も少なく、木賃宿がほとんどである。
第三章 讃岐札所寺院の接待と遍路屋・通夜堂
 讃岐における遍路への接待について前章で遍路日記から紹介したが、ここでは讃岐の札所寺院の接待のありかたを、茶堂や接待碑・接待堂・遍路屋、通夜堂などの史料から検討してみたい。
 先ず、四国遍路の世界遺産への登録実現を目指して、札所寺院の史跡指定のために香川県・香川県教育委員会が、2022年3月までに刊行している16か寺の『調査報告書』に依拠して、札所の茶堂と接待碑についてまとめてみる。讃岐には札所は23か寺あるが、12か寺に茶堂が置かれ、接待碑が8基あったことが確認できる。茶堂のうち一番古いのは弥谷寺の享保10(1725)年の「施茶堂」であり、多度津藩領の大庄屋により建てられた。ほかにも観音寺や本山寺、根香寺など、地域の有力者や近隣の地域の協力によって接待所が建てられ、また対岸の備前・備中・備前からの接待が行われている札所もあった。
 手許に収集の翻刻された遍路日記のうち、札所の茶堂や接待を触れている、文化2(1805)年から弘化2(1845)年までの8点の日記がある。一番新しい弘化2年の筑前国宗像郡津屋崎村の佐治家の「四国日記」によると、接待のあった14か寺のうち11か寺に茶堂で接待があり、また茶堂でなくても境内で周辺の地域や対岸の備中の村からも接待が行われていた。
 白峯寺の文政12(1829)年の史料によると、「古堂」となった茶堂を二間半に六間の瓦葺きに建て替えることを願い出ている。白峯寺では茶堂は寺自身が建てたものであることがわかる。これよりほぼ一世紀前に、弥谷寺で施茶接待堂が建てられ、享保10(1725)年の「施茶接待堂建立願文」と同12年の「常接待料田畑寄進状」が残されている。いずれも多度津藩領財田上村大庄屋宇野浄智(与三兵衛)からである。弥谷寺には享保10年の接待碑があり、接待のための田地は寄進状によると、三野郡大見村のうち5反3畝余(高2石9斗余、実収6石1斗余)であった。
 遍路の宿泊所としての遍路屋が本山寺・甲山寺・善通寺にあったのが確認できる。本山寺の「遍路屋記録之覚」よると、延享2(1745)年に三野郡竹田村の辻治兵衛によって、遍路屋が建てられ、以後の運営等は本山寺近辺の地域の寄附によっていた。甲山寺では境内に遍路屋を建て遍路を泊まらせてきたが、近年凶年が続き薪に不足しているので、背後の山林の落葉下草等を遍路屋の援助に当てることを願い出ている。善通寺では宝暦9年(1759)までには遍路屋が設置されていたが、その場所は文政6(1823)年ころは西院の誕生院境内にあった。
 遍路屋と同じような役割を果たしていた通夜堂があった。白峯寺では人家から離れているので遍路を宿泊させてきたが手狭であったため、万人講により通夜堂を建て、常接待料として田20石を寄附したいと申し出る者がいるとして、万人講への加入を周辺の地域へ呼びかけている。時代は下るが明治11(1878)年の志度寺、同19年の甲山寺に通夜堂を記した記録が残っている。
第四章 遍路日記にみる「白鳥道」
 僧真念の『四国徧礼道指南』では、一番札所から遍路をはじめ、88番大窪寺で終わり、大窪寺からは10番札所切幡寺へ出るとしている。『四国徧礼道指南』から60年後に書かれた、18世紀中ころの延享4(1747)年の讃岐国豊田郡井関村の庄屋佐伯藤兵衛の「四国辺路中万覚日記」では、大窪寺から阿波の日開谷番所を通って切幡寺へと向かっており、このころはまだ「切幡道」が一般的であったと思われる。
 大窪寺からの遍路が讃岐国寒川郡長野村から東の日開谷に行かずに、北の瀬戸内の白鳥へ向かっているのが確認できるのは、19世紀に入ったばかりの寛政12(1800)年の阿波国那賀郡富岡町の河内屋某の「四国遍へんろ礼名所図会」である。長野村から左の北への道をとり、入野山から新川村を経て白鳥へ出て、白鳥宮を参詣して白鳥の東隣の引田で泊まっている。この白鳥への道を遍路が通るようになった背景には、17世紀中ころに再興された白鳥宮への参詣者が増えていき、18世紀後期には白鳥が門前町として発展していたことがあったと思われる。以後この白鳥を通ることが多く遍路日記に記されている。
 白鳥から先は引田へ行き、引田から山を越えて阿波の大坂番所へ向かうか、引田から浜辺を通り碁浦番所を経るか、または引田から船で撫養へ向かうこともあった。大坂番所を経由して3番札所金泉寺へ向かったことは、先の「四国遍礼名所図会」に記されている。碁浦番所の初見は天保7年の松浦武四郎の「四国遍路道中雑誌」に、また引田から乗船して撫養に向かったことは、享和2(1802)年の紀伊国和歌山学文路の平野作左衛門の「四国遍路道中日記」に記されている。以上のような長野村から白鳥、引田を通り、阿波の大坂番所に至る道を「白鳥道」といっておこう。
 長野村からの白鳥・引田を経由する白鳥道には札所はないが、遍路道筋で接待があったのが文政11(1828)年以後の3点の遍路日記にうかがえる。これらの接待のなかには「村中」や「講中」とあるのは、集団で接待をしていることを示している。このように白鳥道の道筋の各地で接待が行われていることは、白鳥道が遍路道としてその地域の人々に理解されていたことを示しているのであろう。
 なお本章は香川県・香川県教育委員会による『四国遍路から考えるまちづくり講座in東かがわ市』(2022年3月)での報告、「近世の遍路日記からみる『白鳥道』」の内容をまとめたものである。
 Ⅲ部 〔概要〕幕末における高松藩と坂出の塩田・軍事
 坂出市の市史編さんは、昭和63(1988)年に『坂出市史 資料』・『坂出市史 年表』を発刊してのち、しばらく中断していたが、平成25(2013)年に以後10年の計画で改めて編さんが行われることになった。この再開された『坂出市史』の編さんで近世編後期の一部の執筆を担当した。その内容は幕末の高松藩の政治動向とこれに関連した坂出の状況、坂出新浜塩田や高屋浜塩田のありかた、坂出の軍事的な動き、それと坂出に含まれる塩飽地域の水夫と幕府とのかかわりであった。
 『坂出市史 通史 近世篇』は令和2(2020)年12月に予定通り刊行されたが、ここに収録したのはその担当執筆部分(第9・10・11・23章)である。執筆に際しては、近世終わりの坂出のこれまでわからなかった歴史の一部でも、明らかにできればとの思いであった。なお『坂出市史』に掲載された項目や内容を変更している箇所があり、またここで使っている「坂出」は旧藩の坂出村ではなく、現在の坂出市域を指していることを断っておきたい。本書への掲載をご了解いただいた坂出市史編さん所に感謝を申し上げたい。
第一章 高松藩天保改革と坂出
 文政4(1821)年に高松藩8代藩主となった松平頼恕は、当時の藩財政難克服の改革のために、同8年に江戸藩邸にいた筧速水を帰藩させて、木村亘とともに年寄(家老に当たる)に任じ、藩財政の再建に取り組ませた。緊縮財政の実施とともにまず行われたのは、文政9年から始まった坂出新開での塩田の築造であった。文政8年以後の政治を天保改革という。
 この坂出塩田の築造は、高松藩の科学技術者久米栄左衛門の建言により、久米栄左衛門を工事責任者として文政9年から年始められた。築造の財源は公的な藩財政からではなく、藩主直轄の「御内証金」が充てられ、藩からの担当者は勘定方吟味役の吉本弥之助であった。文政12年に坂出塩田は完成したという。
 坂出塩田の築造とともに取り組んだのが、当時高松藩の特産として広く知られるようになっていた砂糖に対する統制であった。これまでに行ってきた統制を強め、坂出塩田の完成から6年後の天保6(1835)年に、砂糖為替金として藩札を貸し付けて砂糖の生産を奨励し、それによって生産された砂糖は大坂へ送らせ、その代銀を大坂藩邸へ返済させることにした。これを「船中為替」といい、藩札貸付のために領内9か所に砂糖問屋(のち砂糖会所引受人)を設置した。坂出には当初は坂出浦と林田浦に砂糖問屋が置かれた。
 9か所に置かれた砂糖会所の1つに林田浦砂糖会所があり、当時大内郡とともに砂糖生産が盛んであった阿野郡北を管轄していた。この林田浦砂糖会所の引請人が阿野郡北の大庄屋の渡辺家であったが、この渡辺家に領内で唯一砂糖会所に関する貴重な文書が残されている。坂出村から売り出された砂糖をみると、坂出村で生産された砂糖は少なく、多くは近隣の村から買い集められた砂糖であった。これらの砂糖の送り先は大坂がほぼ9割を占めており、残りは瀬戸内の各地であった。
 18世紀中ころ以降、全国的に日常必需品が広まったが、高松藩でも農村で生活必需品を取り扱う「店(たなあきない)商」が増え、文政10年にその実態調査が40年振りに実施された。同時に農村居住の各種商品を取り扱う商人に株を与え、商品の流通を統制することにした。この農村における店商や商品流通の取り締まりは、文政8年に始まった高松藩の改革政治の一環であった。
 天保に入ると一層農村への統制を強めていき農村支配の再編を目指したが、これらは農民の生活を安定させることによる年貢米の確実な徴収と、農村の治安維持を意図したものであったといえよう。
第二章 坂出の新浜と古浜
 久米栄左衛門の建言によって、坂出村の沖に塩田が築造されたが、当時の史料ではこれを新開、新浜などといっている。この新開は塩田と畑地があり、塩田が多くを占めていた。新浜には天保5(1834)年に宮崎駒吉が、以後安政6(1859)年まで塩庄屋となっている。高松藩各地の塩田に置かれた塩庄屋は、藩の塩屋方の管轄下にあったが、坂出新浜の塩庄屋は、新開に新たに設置された塩会所の管轄下にあった。塩会所は天保6年に史料上確認できる。この塩会所は藩の借財返済を担当する「済方」のもとに置かれており、藩の財政と関わって設置されたのではないかと思われる。
 坂出新開は西新開(西新浜)・東新開(東新浜。中新開ともいう)江尻新開の3新開のことをいうが、坂出塩田とは西新浜・東新浜のことである。塩釜家は合わせて70軒前であった。この両新浜には1軒ずつの塩問屋が置かれており、天保の初めには新浜塩の大坂での売り払いを大坂の商人と交渉し、また出羽秋田湊との塩取り引きを行ったりしている。
 天保6年に5軒の諸問屋株が置かれ、新開で必要な日常品の水揚げや新開内での取り引きに従事した。新浜で生産された塩は西新開築造中の文政11年に、引田の久米屋大通丸が江戸仲買に塩を積み送っており、天保に入ってからも新浜塩の江戸積み送りが順調に行われていた。
 天保13年に新浜塩百姓らは塩庄屋宮崎駒吉を、塩釜神社の普請など5点にわたる不正があるとして訴え出た。しかしこれらのについては「内済」(示談)とすることになり、翌年塩百姓らはこの訴えを取り下げたが、2年後の弘化2(1845)年に宮崎駒吉は処分を受けている。しかし新浜における宮崎駒吉の存在は大ききかったらしく、嘉永4(1851)年には「御お目め見みえ」を許されている。
 坂出新浜からの藩への収納は口銀と冥加銀で、口銀は釜家1軒前の生産高の塩1俵につき銀3分、冥加銀は鹹水をつくる沼井ごとの生産塩俵数に銀4匁を掛けたものである。天保4年と思われる「御口銀元帳」と「御冥加元帳」によると、口銀は銀49貫945匁余、冥加銀は銀65貫337匁余となっている。塩生産が盛んとなり、新開の地域が発展する中で、西新開に天保10年から荷揚場の築造に取りかかり、7年後の弘化3年に完成している。のち慶応2(1866)年に同じく西新開に2か所の荷揚場を築いている。
 安政(元・1854)に入ると諸問屋らの取り引きを巡って争論が起こっている。一部の諸問屋から「貸株」を受けたものが不正な取り引きをしているとして、諸問屋らが貸株の禁止を願い出ている。また新浜百姓も「借株」した恒七と熊助を同様に訴え出ている。この2名は新浜百姓や塩問屋兼諸問屋北野美屋正三郎・堀井惣一郎から坂出村居住禁止の要望が出されている。恒助と熊七は反論書を提出したが、結局両人はこれを取り下げている。このように新浜での取り引きに関して、借株したものと新浜百姓・諸問屋らの対立はありながらも、安政ころには坂出新浜では尾張船・北前船をはじめ他国船との塩の取り引きも盛んであり、経済的に安定した状態にあったといえよう。
 久米栄左衛門によって坂出新開が築造される以前には、坂出村の海岸には東は御供所から西は江尻にかけて塩田があった。新浜に対して古浜ということもあるが、史料では坂出浜と出ているので、ここでは坂出浜と称することにする。坂出浜にはいつからか明らかでないが塩庄屋が置かれており、文政以降では頻繁に交代が行われているが、天保期には高屋村庄屋の三野利三郎が兼帯して長く勤めている。また塩問屋が置かれ冥加銀を納めていたが、天保7年には塩問屋が3名だったのが確認できる。
 西新開が築造された文政12(1829)年に、これにともなって坂出浜の釜家18軒が潰れ浜となることが明らかになり、坂出浜百姓らは存続の嘆願書を提出したが、のち弘化4年には潰れ浜の一帯に検地が実施されており耕作地となっていた。
 この潰れ浜とは別に、のちには釜家1軒を取り壊して3軒に分割する、新開の築造の影響をうけて釜家2軒を潰れ浜にする、また釜家2軒が塩浜の荒れ地化のため田地化を求めるなどの要望が出されている。これらは坂出新開築造の影響を受けてのことであった。
 坂出浜百姓の経営は苦しかった。天保4と7年に拝借銀を願い出ており、また慣れ浜百姓も十分な収穫が得られず、天保4年に拝借銀を受けている。また少し時代が下るが、安政2(1855)年に坂出浜百姓は高松城下の塩屋方へ「直訴」を行ったが、その内容は塩取り引きのありかたや塩年貢の納入に関することであった。がこの直訴は結局取り下げられている。
第三章 高屋浜の推移
 阿野郡北に属し坂出村の東にある高屋村の高屋浜は、近世中期に入ったころには製塩が行われていたが、享保13(1728)年には塩浜の面積は7町7反余であった。のち宝暦8年(1758)には10町8反余となり、塩田面積は増加している。近世後期には高屋浜は釜家14軒前であった。
 高屋浜の塩庄屋は近世後期は三野家が勤めており、文化14年(1817)以降のことを記した三野家の「願書控」によって高屋浜の状況をうかがうことができる。文政11年には水吐水門の流れをよくするための石波止築造を願い出ているが、その普請が先延ばしになっていた。この波止普請について天保2(1831)年に阿野郡北12か村の庄屋は、「郷人足」つまり阿野郡北の村々で人足を負担することに反対している。結局波止普請は雇い人足で行うが、一部は郷人足を出すということになっている。
 天保14年には高屋浜の塩生産を維持するために、釜家14軒前のうち5軒前に松葉焚きから石炭焚きへ変更することを、塩屋方へ申し出て許可されている。翌弘化元(1844)年にはさらに3軒前の石炭焚きが認められた。この高屋浜の石炭焚きに対して、隣接する青海村と林田村から石炭焚きによる煙害の訴えが出された。さらに阿野郡北の大庄屋も代官手代に煙害の被害を支持する意見書を提出しており、実際に塩田のある坂出村の隣村の江尻村では山林に被害があり、作物にも影響を与えているという。しかしこれらの要望は認められなかった。
 弘化4年7月の大風雨により、高屋浜は釜家2軒丸潰れ、同12軒半潰の被害があり、高屋浜の堤防が崩れて塩作りができなくなった。このため翌嘉永元年に高屋浜では潰れ浜での塩作りを諦めて、田畑化することによって砂糖作りを行うことを塩屋方へ願い出ている。結果は明らかでない。
 高屋浜では釜家1軒前ごとに口銀、高屋浜全体に冥加塩、また塩庄屋・塩組頭・塩問屋にも冥加塩が毎年課されていた。この口銀・冥加塩のほかに御用銀が懸けられており、天保8年・文久3(1863)年・慶応元(1865)年に郷中への御用銀とともに実施された。
 高屋浜からの塩の積み出しは大藪川口番所と坂出浦川口番所から積み出されているのが確認できる。高屋浜では幕末ころ大坂への積み送りが多かったが、伊予の大洲の長浜船への売り払いも行われた。安政4(1857)年には三本松の住吉丸との塩の取り引きをめぐって「入割」が起こったが、結局、木沢村の中条藤八郎の仲介によって「内済」となっている。
第四章 高松藩の政治動向と海岸防備
 高松藩では天保13(1842)年に松平頼胤が10代藩主となった。高松藩は初代藩主松平頼重が御三家の水戸藩の出であったことから、水戸藩との関係が深く、また江戸城では大名の最高の格式とされる溜たまりのま間の詰であった。しかし松平頼胤は、前藩主徳川斉昭が主張する尊皇攘夷を支持する水戸藩内の勢力とは対立を深めていた。
 ぺリー来航に際して高松藩は幕府から品川にある浜御殿の警備を命じられたが、安政4(1857)年に大坂木津川台場の警衛を担当した。しかし翌5年には京都乙訓郡塚原村に陣屋を建て、京都警備に当たることになった。この京都警備は以後5年続いたが、文久3(1863)年からは摂津の境川から播磨の湊川にかけての海岸防備(兵庫警衛という)を命じられた。この兵庫警衛は翌年の長州出兵への従軍により解かれた。
 元治元(1864)年に、京都を追われていた長州藩を中心とする尊攘派は、再挙を図って京都へ進軍したが、幕府を中心とする軍勢に敗れた。これを禁門の変という。このとき当時の高松藩主松平賴聡は藩兵を率いて上京し御所の警衛に当たった。この後幕府は諸藩に長州藩の追討を命じた。このとき高松藩は藩主松平賴聡が軍勢とともに安芸国倉橋島に出動したが、長州藩の降伏により戦うことなく帰藩した。翌年再度の長州追討が幕府から発せられた。しかし幕府軍は大島の戦いで長州藩軍に敗北した。このとき高松藩にも長州藩の上関への出動が命じられたが、幕府軍の敗北により出動しなかった。
 明治元(1868)年正月になると、旧幕府軍は京都への進軍をはじめたが、鳥羽・伏見で薩摩藩・長州藩軍らとの戦いに敗れ、徳川慶喜は大坂から軍艦で江戸へ戻った。高松藩兵は旧幕府軍に参加しており、同じく旧幕府軍に従った松山藩などとともに朝敵となった。高松藩では藩主松平賴聡は城下の浄願寺で謹慎、家老2人が切腹し、薩摩藩・長州藩と行動をともにしていた土佐藩軍が高松城下に進駐した。のち朝敵となったことを許された。
 高松藩ではペリー来航後の安政に入ると、阿野郡北の海岸で「大筒」(大砲)の稽古が盛んに行われるようになっているが、これは海岸防備の強化のためであった。大筒が設けられていたのが「台場」(砲台)であった。大筒の稽古が始まったころに阿野郡北の乃生村・林田村・御供所村に台場築造が行われた。
 高松藩では異国船渡来時には、安政4年に領内各地にいる鄕士たる牢人を出動させる方針を出した。そして各地の浦に「固所」を設置することにしたが、安政6年には12か所の「固場」を決めて、藩士が到着するまで牢人が警固にあたり、村役人も百姓50人を引き連れて出動する方針を出している。阿野郡北では林田浦の西招寺、坂出浦の教専寺が固場になった。
第五章 農兵の鉄砲稽古と軍事負担
 幕府は文久3(1863)年3月に入って5月10日を期して、攘夷を決行することを決定したが、高松藩領内には3月末に伝えられた。このため東西の固場の寺院に「地士農兵」の繰り出しが命じられた。地士は牢人のことであり、農兵は鉄砲(威筒)・竹槍などを携えた百姓のことである。安政6(1859)年のときの百姓の出動とは異なって、百姓に武器を持たせて武士が担うべき軍事力の一部としたのである。
 この農兵の取り立ては鉄砲組を中心としていたが、槍組・斧鉈組なども設けており引率する長百姓には帯刀を許した。このため高松藩では各村ごとの鉄砲の所持調査を行っている。そして阿野郡北では5月に郡内各地の12か所に「角場」(鉄砲稽古場)が設けられた。坂出村では46人の農兵が割り当てられた。
 元治元(1864)年末に農兵の中から選抜された高島流歩兵が、後述する長州出兵への従軍が命じられている。歩兵には従軍中は帯刀が許され、洋式銃陣の訓練を受けた藩の小銃隊であった。翌慶応元年に阿野郡北では村ごとに計19人の歩兵が確認でき、うち11人は西宮警衛に派遣された。歩兵の訓練は高松城下で行われていた。
 明治元(1868)年10月には郷中から徴発していた歩兵は廃止され、新たに高島流歩兵の800人の藩による召し抱えが行われ、農兵で希望する者はこの歩兵になることができた。そして新歩兵には藩から給米が支給されており、これは藩兵としての小銃隊であった。なお文久3年当時阿野郡北には洋式野戦大砲が4門、洋式銃85挺揃っていたという。
 第一次長州征討に際して高松藩は藩主自らが出動したが、このとき領内に中間代わり人足、御用人足が割り当てられ、また長州出兵御用として飼葉・竹・草鞋・松束などを上納している。出陣に際しては多くの船が必要であったが、沿岸各地の水かこ主浦から船・水夫が動員された。阿野郡北からも水夫が102人が従軍した。こうした長州征討に際しての農民の負担は大きなものであった。
 元治元年10月に、この年6月から10月までの「防禦一件」に関する経費である、「軍用入目」の郡・村の負担の調査が領内に達せられた。阿野郡北では銀101貫余の経費支出があり、そのうち藩への負担は72貫余で、阿野郡北が独自に25貫余を支出していた。これらの軍用入目の財源は阿野郡北の13か村から拠出された
 元治元年の阿野郡北の負担としては人足出立支度料、高島流歩兵稽古中宿扶持代不足などがあったが、翌年の軍用入目をみると、大坂行きの歩兵の出張手当、見張番所に詰める牢人・農兵の扶持米代、歩兵の城下稽古手当、高島流ゲベール銃城下送り人足賃米などとなっている。
第六章 塩飽水夫と幕府
 ペリー来航後徳川幕府は大船建造禁止を廃止して、浦賀で軍艦の建造を始め、安政元(1854)年正月に洋式軍艦の鳳凰丸を建造した。この鳳凰丸の乗組水夫として塩飽に30人の徴発が命じられた。これは塩飽では近世初期以来幕府の「御用水主役」を勤めていたからであった。この30人は「水主役」を課されていた「人にん名みょう」の浦・島に割り当てられ、鳳凰丸の試運転に乗艦した。
 幕府は洋式海軍の創設のために、翌年から長崎で蒸気船観光丸で「海軍伝習」を行い、幕府をはじめ諸藩の家臣が参加した。この海軍伝習に塩飽水夫も動員されたが、これら水夫の経費は塩飽から拠出され、塩飽にとっては財政的な負担となっていた。この長崎海軍伝習に参加した塩飽水夫の中で、指導的な役割を果たしていた与島の与次兵衛の書簡が残っており、海軍伝習に従事していた塩飽水夫の様子が記されている。
 安政5年に観光丸に塩飽本島の宮浜と与島から石炭を積み込んでおり、その代銀を受け取ったことを塩飽の年寄が、咸臨丸の乗船の係り役人へ伝えている。咸臨丸は同年12月に長崎を出航して江戸へ向かったが、その途中塩飽へ立ち寄っている。万延元年のはじめに日米修好通商条約批准書交換のために、アメリカへ使節が派遣されたが、このとき咸臨丸もこれに随行した。この咸臨丸に塩飽水夫35人が乗船しており、その1人である石川政太郞が航海日記を残している。
 幕府は小笠原諸島の調査を文久元(1861)年に実施し、咸臨丸・朝陽丸・千秋丸を派遣したが、いずれにも塩飽水夫が乗船していた。このように幕府軍艦への乗船にみられるように、塩飽水夫は蒸気船の技術を身につけていたことが知られる。
 慶応2(1866)年に幕府は長州藩への再攻撃を行ったが、小倉口で幕府軍艦富士山丸と長州藩の丙寅丸の戦闘中に、富士山丸の大砲が爆発して塩飽の広島出身の小頭弥八が巻き込まれて死去した。弥八は富士山丸にはじめから乗艦し、水夫の教育にあたり大砲の扱いにも熟練していたという。こうした塩飽の水夫は弥八以外にも多くいたと思われる。
 慶応3年3月に、幕府留学生の随員としてオランダにいた塩飽瀬居島の古川庄八と高見島の山下岩吉は、幕府がオランダに建造を注文していた最新鋭鑑軍艦開陽丸とともに帰国し、古川庄八は開陽丸の水兵頭となった。翌明治元年8月に幕府の海軍副総裁榎本武揚は、開陽丸など8艘の軍艦を率いて品川から脱走し、函館の五稜郭に拠って新政府軍と戦った。この五稜郭の戦いに古川や渡辺清次郎が榎本軍に従軍しているのが確認できるが、かれら以外にも塩飽出身者が榎本軍に参加していたと思われる。
 Ⅳ部 史料紹介
 近世の讃岐に関する史料については、平成22(2010)年10月に『史料にみる讃岐の近世』として、「地域と歴史」・「生駒藩と丸亀藩」・「高松藩の砂糖」にわけて13点(他に補遺2点)を紹介した。その後収集した史料の中から、近世讃岐の歴史にとって重要であると考えられる4点の史料をここに紹介することにしたい。
 翻刻に当たっては、旧字体は新字体に改め、変体仮名のうち助詞に用いられている「者(は)」・「而(て)」・「江(え)」は小活字で示し、その他は平仮名に改め、「ゟ(より)」・「〆(しめ)」は残した。判読不明の字は□で示し、推測できる場合はその横に( )で記した。
第一章 高松藩士吉本弥之助の久米栄左衛門宛書状
 当史料は久米栄左衛門史料(鎌田共済会郷土博物館蔵)の中に残されている。
 藩財政の悪化に苦しんでいた高松藩は、建言した久米栄左衛門を責任者にして、文政9(1826)年に入ると坂出新開(塩田)の築造を始めた。その築造の経費は藩主直属の「御内証金」から出されたが、この御内証金に関係していた藩の奉行(家老たる年寄に次ぐ重職)堀造酒之助のもとで、久米栄左衛門と連絡をとっていたのが勘定方吟味役吉本弥之助であった。
 この吉本弥之助の久米栄左衛門宛の書状をとおして、藩からの築造費の支出や藩外からの築造資金の調達など、これまで明らかでなかった坂出新開の築造の状況をうかがうことができる。なお久米栄左衛門と吉本弥之助の関係については、先に拙稿「高松藩坂出塩田築造の経済事情」(拙著『近世讃岐の高松藩国産と四国遍路』収載)で触れたが、本書Ⅰ部第二章でも述べている。
 この吉本弥之助の久米栄左衛門宛の書状については、かつて「坂出塩田築造に関する高松藩士吉本弥之助の書状」として、『坂出市史研究』(第4・5号)に久米栄左衛門との関係、坂出新開の普請の様子、新開築造の経費、大坂からの資金調達などに関する史料を報告した。これら以外にも坂出新開の築造に関係した重要な史料があるので、ここであらためてこれらの書状も含めて、吉本弥之助のすべての書状40通を紹介したい。
 久米栄左衛門史料のなかに、久米栄左衛門の吉本弥之助宛の書状が3通あるので、参考までに終わりに紹介することにした。
 なお、紹介する書状は、香川大学松村雅文教授編『久米通賢に関する基礎的調査・研究 成果報告書』の久米通賢史料目録の史料番号Dの順となっている。
第二章 「讃岐国名勝図会」刊行関係史料
 当史料は高松藩領鵜足郡の大庄屋十河家の嘉永元(1848)年の「御用留」に収められている(十河家蔵)。
 讃岐の地誌としてよく知られているのが「讃岐国名勝図会」である。幕末に梶原藍渠のあとを子の梶原藍水が承け次いで編纂された。全体の構成は十五巻で、巻一(大内郡)から巻五(香川郡東上)までが前編、巻六上(香川郡東中)から巻十二(那賀郡下・金毘羅之部)の後編、巻十三から巻十五(多度郡から豊田郡)の続編となっていた。このうち安政元(1854)年に前編の5冊が刊行されたが(安政6年の刊行では7冊となっている)、後編は稿本、続編は草稿で残っている。
 ここで紹介する史料は、この「讃岐国名勝図会」の刊行に際して、その経費が高くつくということで、各村の庄屋から調達したいという要望を、高松藩の10郡の大庄屋に依頼したものである。依頼人は史料にあるように梶原平四郎(藍水)を助けて、「讃岐国名勝図会」の編纂に参加していた小松乃太夫である。小松乃太夫がどういう人物か明らか出ないが、阿野郡北大庄屋の渡辺一郎・本条和太右衛門と「懇意之者」であるという。
 小松乃太夫が出した要望が、阿野郡北大庄屋から高松藩9郡の大庄屋へ伝えられ、まずはじめに阿野郡北の西に位置する鵜足郡の大庄屋へ出され、それから順に東ヘ廻達されることになっている。各村からの調達の内容は村毎に3部で1部銀5、60目を考えているという。この嘉永元年の時には大内郡から那珂郡の10冊ができあがったといっている。
 実際の刊行はこれから6年後となったが、「讃岐国名勝図会」編纂の背景にはこうした高松藩内各村の協力があったことが当史料から知ることができる。高松藩内の庄屋家の調査で、よく「讃岐国名勝図会」を見ることが多いのは、当史料にうかがえるような事情があったからである。
第三章 丸亀藩安政4年「市郷御封札一件控帳」
 当史料は龍満馨氏蔵である。
 丸亀藩では近世後期の天保頃(1830~1843)までは、領内の経済状態は安定していたが、それを過ぎると領内の正銀が不足していき、当時流通していた藩札との引き替えが制限されたことから、藩札の信用が低下し領内の経済はインフレ状態になった。
 こうした藩札の流通状態を改善するために、藩では安政2(1855)年5月に、丸亀城下や郷中に「封札」の方針を出した。その内容の主な点は、藩札を余分に所持しているものはそれを銀札場に預けるか、または封印して各人で保管すること、封印札に対してはその利銀として封銀の3分5厘を渡すこと、郷中については利銀は年貢米で決済すること、申し出があればいつでも「開封」することなどであり、領内の藩札通用の量を減らして藩札の信用を回復して、領内のインフレ状態を解消することを狙っていた。
 この封札は強制でなかったため効果はなかったらしく、同年12月に郷中へ封札3000貫目を人別顔割(資産高に応じた割り付け)と高掛り(所持石高に応じた割り付け)によって行っているが、人別顔割がそのうち2689貫目余と圧倒的に多かった。人別顔割は各人で保管し、高掛りは銀札場へ預けることにした。(以上、拙著『藩政にみる讃岐の近世』272~274ページ)。
 当史料は安政4年閏5月に3度目の封札が、家老の多賀越中から命じられたことに関するものであり、安政2年5月・12月のあとにも封札が実施されていたのがわかる。内容は2つから成っている。1つは町奉行から封札を6月10日までに終えるように伝えられたことに対して、銀札565貫100目の封札に対する、丸亀城下の下南条町・塩飽町・塩飽町・冨屋町・横町・浜町・福島町・通町・魚屋町・西平山の「延封」(封札延期)の状況に関するものである。また丸亀城下の封札の状況が附記されている。
 もう1つは郷中の封札に対する利銀に関するものであり、有力者12名の利銀3分5厘の当年払い下げの延引、また観音寺の上市浦・酒屋町・鍛冶分・茂木町の商人らの当年利銀の献納についてである。封札には額に応じて3分5厘の利銀が支給されることになっていたことは先述したが、封札者からの利銀の返上・献納が行われているのがわかる。のちには封札された藩札が藩へ返上されることになっている(拙著前掲書274・5ページ)。
 以上のようにこの「封札一件控帳」は、安政4年閏5月に命じられた丸亀城下町の封札の状況が中心となっており、それに郷中の利銀の延引、献納のことを触れたものが付け加わっている。こうしたことから、当史料の編者は不明であるが、おそらく丸亀城下町の住人か、または丸亀城下町に関心を持つものが書き留めたものであろう。
第四章 高松藩坂出村砂糖取引・砂糖絞屋仕切銀関係史料
 当史料は坂出村庄屋阿河家の「諸願書留」(瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)に収められている。
 砂糖の製造が高松藩で成功したのは寛政元(1789)年で、高松藩領東の大内郡三本松の医師向山周慶によってであるといわれている。この時の砂糖は黒砂糖であったが、のち寛政11年頃には白砂糖が生産されるようになっているのが確認できる(拙稿「寛政・文化期高松藩の砂糖生産と流通」、拙著『近世讃岐の高松藩国産統制と四国遍路』所収)。砂糖は甘蔗(砂糖黍)を栽培し、それを砂糖車で搾って白下地にし、この白下地を押おしふね船にかけて白砂糖に精製するが、この精製過程で焚込・蜜がつくられる。この白砂糖の生産を行うのが絞しぼり屋やである。
 初め高松藩内の砂糖生産は藩領東部の大内郡と寒川郡で盛んであったが、のち領内の各郡に広まっていき、天保8(1837)年にはここで取り上げる坂出村が属する阿野郡北では、甘蔗植付面積が大内郡・寒川郡に次いで多かった(拙稿「高松藩の砂糖流通統制」、拙著『近世讃岐の藩財政と国産統制』所収)。阿野郡北の13か村の中で坂出村は、文政2(1819)年ころには、平均的な砂糖生産地であった。
 しかし文政7年には甘蔗生産面積は林田村が62町余と特別に多いが、これに次ぐ江尻村21町余等の4か村よりさらに低く、坂出村は5町余となっており、また文政11年の砂糖車も同2年の24挺から8挺へと激減している。砂糖車が少ないということは白下地の生産が減退したことを示している。このように文政中ころ以降坂出村での砂糖生産は減少していた。のち藩領全体で砂糖生産が盛んになる幕末の安政(元・1854)から文久(三・1863)にかけては、甘蔗植付面積は文政7年の3倍になっており、白下地の生産も増加したと思われる。
 一方阿野郡北の砂糖仲買人をみると、文政10年には阿野郡北で36人中に、坂出村が12人と3分1を占めていることは、周辺各村からの白下地をはじめとする白砂糖等の買い入れが、砂糖仲買人により多く行われていたことを物語るものであろう。安政元年の坂出村の砂糖取扱高をみると、坂出村で生産されたのは2万8018斤に対して、領内からの買入が56万9959斤余となっているように、村外からの砂糖の買い入れが多かったことがわかる。また白砂糖を生産する絞屋については、文政7年に白砂糖63挺を売り渡した丈吉らが確認でき、ある程度の規模で白砂糖を生産する絞屋がいたことがうかがえる。(拙稿「高松藩領坂出村の砂糖と塩」、拙著『近世後期讃岐の地域と社会』収載)。
 以上のような近世後期から幕末にかけての坂出村の砂糖生産の状況の中で、安政3年から文久3年にかけての坂出村の砂糖の取引や砂糖絞屋に関する史料を紹介する。こうした史料は他に殆ど見ることはできず、坂出村にとどまらず高松藩内の村々の砂糖生産・流通の実態を理解する上で、重要な史料であると考えられる。なおここに紹介する史料の一部は前掲拙稿「高松藩領坂出村の砂糖と塩」で引用していることを断っておく。
 以上、本書の個別の章の内容を要約して紹介してきた。各章の検討を進めるに当り、史料の閲覧に際して鎌田共済会郷土博物館、香川県立ミュージアム、瀬戸内海歴史民俗資料館、坂出市史編さん所、香川県立文書館、香川県文化振興課などにご配慮を受け、また多くの方々にご助言等をいただいたことに感謝申し上げる。

【目次】

Ⅰ部 久米栄左衛門と坂出新開
 第一章 高松藩坂出新開における天保三年の収納状況―久米栄左衛門史料「金銀出入勘定帳」の検討―
  はじめに
  一 「金銀出入勘定帳」の記載
    「銀」と「金」に区別/「入」と「内払」
  二 収納の内訳
    「奥御用所」・「御奉行所」/「借用」/「口銀」と「浜方冥加」/「帆別銭」/その他/「心積控」にみる収納
  三 「内払」について
  四 文政末の銀札・正金出入り
    文政一〇年の「銀札手形」/銀札渡しと正金払い出し/文政十一年の「銀札断」
  五 南野村五郎兵衛の久米栄左衛門宛書状
  おわりに
 第二章 高松藩の坂出新開築造と大坂・江戸商人―久米栄左衛門宛書状からみた―
  はじめに
  一 「御内証金」・吉本弥之助・「奥御用所」
    「御内証金」/吉本弥之助と「御金蔵」/「奥御用所」
  二 久米栄左衛門と草薙正兵衛
    久米栄左衛門の「手形」指し出し/「御新開普請」と草薙正兵衛/大庄屋との関係
  三 「大坂一件」
    「御借方御取計」/久米栄左衛門の大坂「出掛」/「御借入金調達」
  四 大坂商人と砂糖
    岡三士郎/鍵屋礒次郎/堺への砂糖廻送
  五 江戸商人と塩
    松本安兵衛/久米屋大通丸の浦賀入港/新浜塩の江戸送り
  おわりに
 第三章 高松藩坂出新開の塩会所に関する史料的検討
  はじめに
  一 史料にみる塩会所
    塩会所と『坂出史』/塩会所の職掌/塩田譲渡証文の裏書
  二 「新浜掛り」役人
    久米栄左衛門の意見書/「新地普請会所」と「新浜掛り」/「新浜出役人」と「塩会所出役人」
  三 「坂出新浜詰」と「済方」
    「坂出新浜詰」/「済方」と勘定奉行/綾井浜築造願書と塩会所
  四 「奥御用所」と塩会所
    坂出新開の諸問屋株と「奥御用所」/運上銀と塩会所
  おわりに
 第四章 幕末の高松藩坂出新開における社会的動向―史料紹介を中心にして―
  はじめに
  一 天保十三年の新浜百姓と塩庄屋宮崎駒吉
    宮崎駒吉不正の訴え/預銀と塩釜神社建立取込銀/「内済取扱」/宮崎駒吉の処分
  二 弘化四年・嘉永四年の新浜百姓と「張紙」
    再度の宮崎駒吉訴え/「悪党者」不正の浜百姓摘発/宮崎駒吉の「御目見」
  三 安政二年の新浜塩百姓と塩取り引き
    諸問屋疑惑の訴え/訴え願書の不採用
  四 安政三年の諸問屋と無株者
    諸問屋ら「貸株」禁止の要望/新浜塩百姓ら無株者の村外追放要望/諸問屋らも追放の要望/無株者の弁明書
  五 坂出浦と取り引き状況
    浦年寄の役料/畳表・刻み煙草の積み込み/「御用船」地船の塩積み入れ
  おわりに
Ⅱ部 四国遍路と遍路日記
 第一章 遍路の番所通行と遍路日記
  はじめに
  一 澄禅「四国遍路日記」と真念「四国徧礼道指南」
  二 玉井元之助「四国中諸日記」と河内屋「四国遍礼名所図会」
  三 十九世紀の遍路日記にみる番所
  四 土佐藩の「日付」改め
  おわりに
 第二章 遍路日記と讃岐の遍路接待
  はじめに
  一 新延家「四国巡礼道中記録」
  二 野中家「四国遍路中并摂待附 万覚帳」
  三 佐治家「四国日記」
  四 讃岐遍路道の接待碑
  五 四国遍路の接待と善根宿
  おわりに
 第三章 讃岐札所寺院の接待と遍路屋・通夜堂
  はじめに
  一 札所の茶堂と接待碑
  二 遍路日記にみる茶堂と接待
  三 白峯寺の茶堂建替願い
  四 弥谷寺の施茶接待堂と接待田畑寄進
  五 本山寺・甲山寺・善通寺の遍路屋
  六 白峯寺の通夜堂建立寄進願い
  おわりに
 第四章 遍路日記にみる「白鳥道」
  はじめに
  一 大窪寺から白鳥へ
    遍路日記/「切幡道」/「白鳥道」/大窪寺から長野村までの丁石
  二 引田から大坂番所と碁浦番所・鳴門へ
  三 「白鳥道」の接待
    讃岐の接待/白鳥・引田の接待
  おわりに
Ⅲ部 〔概要〕幕末における高松藩と坂出の塩田・軍事
 第一章 高松藩天保改革と坂出
  一 藩財政再建への取り組み
    九代藩主松平頼恕/木村亘・筧速水と坂出塩田/緊縮財政と財源確保/借銀返済猶予と「取立金」/新藩札の発行と砂糖為替金/天保十一年の江戸藩邸財政改革
  二 砂糖為替金と林田浦砂糖会所
    久米栄左衛門の砂糖統制論/「船中為替」と砂糖会所引請人/林田浦砂糖会所引請人渡辺家/林田浦砂糖会所の「船中為替」/坂出村の砂糖積み出し
  三 農村の取り締まりと坂出
    文政一〇年阿野郡北の諸職株/農村支配の再編/「郡村入目」の削減/天保五年の米価対策/御用銀・急用米と坂出
 第二章 坂出の新浜と古浜
  一 天保期の新開と新浜塩百姓
    塩庄屋と塩会所/塩問屋と諸問屋/新浜塩の江戸送り/「夫食」・拝借銀の返済延期願い/新浜塩庄屋宮崎駒吉と塩浜百姓/新開地への移住と新開釜焚き
  二 坂出新浜の発展
    「御口銀元帳」と「御冥加元帳」/荷揚場の築造/諸問屋らの取り引き争い/新浜塩百姓の歎願/新浜塩の積み出しと「尾張船」/浦年寄の増員と新開の繁栄/塩竈明神と西光寺支坊の建立
  三 坂出浜と潰れ浜
    坂出浜塩庄屋と塩問屋/潰れ浜の存続願い/瓶揺掛りの潰れと釜屋の取り壊し/坂出浜塩百姓の拝借願い/坂出浜塩百姓の直訴/与島浜・綾井浜・林田浦塩田・沙弥塩田の築造
 第三章 高屋浜の推移
  一 堤普請と石波止の築造
    近世中期の高屋浜と塩庄屋/西中堤の普請/寄洲新地築きと南堤の修築/水吐水門の寄洲と石波止築造/波止普請の「郷人足」
  二 高屋浜の石炭焚き
    「夫食」・拝借銀の願い/高屋浜周辺の開発/石炭焚きの願い出/青海村百姓の反対/阿野郡北大庄屋の意見/石炭焚きと拝借銀
  三 弘化四年の暴風雨
    高屋浜の被害状況/潰れ浜の田畑化と砂糖作り/石炭ガラと塩浜・畑の開発/塩庄屋利三郎の拝借銀
  四 塩問屋・冥加塩と塩取り引き
    高屋浜の塩問屋/口銀・冥加塩と御用銀/幕末の釜家/高屋浜塩の積み出し/三本松住吉丸との取り引き縺れ
 第四章 高松藩の政治動向と海岸防備
  一 ペリー来航と高松藩
    幕府と藩主松平頼胤/江戸浜御殿の警備/高松藩の京都警衛/禁門の変と長州出兵/高松藩と鳥羽・伏見の戦い
  二 阿野郡北の海岸防備
    「大筒」の稽古/台場の配置/異国船警固と牢人/「固場」の設置/狼煙場
 第五章 農兵の鉄砲稽古と軍事負担
  一 農兵取り立てと高島流歩兵
    攘夷決行と農兵取り立て/坂出村の鉄砲調査/阿野郡北の鉄砲稽古/坂出村の農兵/高島流歩兵と阿野郡北/歩兵の稽古と藩兵化
  二 長州出兵と「軍用入目」
    京都警衛と中間・牢人/「武器料冥加」と軍用金/長州出兵と坂出/見張番所の設置/「軍用入目」/石炭による焔硝製造の試み
 第六章 塩飽水夫と幕府
  一 塩飽水夫の長崎伝習と咸臨丸
    幕府軍艦鳳凰丸への乗り組み/長崎海軍伝習と塩飽水夫/与島与次兵衛の書簡/観光丸・咸臨丸の塩飽寄港/咸臨丸でのアメリカ行き
  二 幕府軍艦と塩飽水夫
    小笠原諸島調査への参加/幕府軍艦富士山丸の大砲爆発/五稜郭の戦いと塩飽の水夫
Ⅳ部 史料紹介
 第一章 高松藩士吉本弥之助の久米栄左衛門宛書状
 第二章 『讃岐国名勝図会』刊行関係史料
 第三章 丸亀藩安政四年「市郷御封札一件控帳」
 第四章 高松藩坂出村砂糖取引・砂糖絞屋仕切銀関係史料
  一 砂糖取引の「入割」
  二 砂糖絞屋仕切銀の出訴一件
〔附録〕分野別の研究論文・報告・史料紹介等
あとがき

【著者紹介】
〔著者〕
木原 溥幸